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東京高等裁判所 平成11年(ネ)3985号 判決

控訴人

大木和博

右訴訟代理人弁護士

鈴木雅芳

被控訴人

田中寅彦

右訴訟代理人弁護士

宮田眞

主文

一  本件控訴を棄却する。

二  控訴費用は、控訴人の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  控訴人の控訴の趣旨

1  原判決を取り消す。

2  被控訴人は、控訴人に対し、三〇〇万円及びこれに対する平成八年一一月三日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

3  被控訴人は、居飛車穴熊戦法の元祖、創始者、本家本元その他これに類する呼称を用いてはならない。

4  訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。

5  2項につき仮執行の宣言

二  控訴の趣旨に対する被控訴人の答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  控訴人の請求原因

1  控訴人は、赤旗全国将棋大会優勝、日経全国初代アマ王座戦優勝などの戦績を持つ日本将棋連盟アマチュア六段の棋士であり、被控訴人は、日本将棋連盟プロ九段の棋士である。

2  控訴人は、昭和三〇年代から昭和四〇年代にかけて、大山康晴名人の振飛車戦法が一世を風靡していた時代に、同戦法に対抗できる新戦法を考案しようと決意して試行錯誤の末に、昭和五〇年頃までに居飛車穴熊戦法を創案し確立した。なお、居飛車穴熊とは、飛車を動かさず(居飛車)、玉を左下隅(先手の場合なら「9、九」の位置)に囲う(穴熊)ことであるが、居飛車穴熊戦法とは、相手が振飛車戦法をとることに対抗して、序盤戦の段階で、基本的には、「7、六歩」、「6、八玉」、「7、八玉」、「7、七角」、「9、八香」、「8、八玉」、「9、九玉」こ「8、八銀」、「7、九金」との守りの手順に「2、六歩」、「2、五歩」、「5、六歩」、「4、八銀」、「5、七銀」との攻めの手順を加えて守りと攻めとを一体化した手順(以下「Aタイプの手順」という。)をいう。また、創案し確立したとは、居飛車穴熊戦法のエッセンスとなる手順を選択し集積したことをいう。

3  控訴人は、居飛車穴熊戦法を用いて、昭和四五年から昭和五二年まで八期連続して赤旗全国将棋大会の東京代表になり、その間の昭和四八年には第一一期赤旗全国将棋大会に優勝し、昭和五〇年には日経全国初代アマ王座戦に優勝した。控訴人の棋譜は新聞、雑誌等に掲載され、昭和五〇年以降、プロ、アマを問わず居飛車穴熊戦法が広く指されるようになった。したがって、控訴人は、居飛車穴熊戦法の元祖ないし創始者である。なお、居飛車穴熊戦法の元祖又は創始者とは、居飛車穴熊戦法を創案し確立した者を意味する。

4  被控訴人は、(一)「近代将棋」平成六年一月号七八頁において「振り飛車には居飛車穴熊!元祖の私としては」と発言し、(二)平成七年一一月八日のNHK衛星放送第二の将棋解説番組において「将棋の戦法に特許があれば他の人は居飛車穴熊を指せない。」と発言し、(三)「近代将棋」平成八年二月号一〇二頁において「ご存知居飛車穴熊(エヘン。その元祖は、エヘン、不祥このわたくし田中寅彦でございます。」と発言し、(四)控訴人からの抗議に対する平成八年二月六日付回答書において「私が「元祖」と称したのは、「居飛車穴熊」を独自に研究し、序盤の組み立て、駒の配置移動等を確立したためであります。(中略)私の序盤の組み立て、駒の配置移動については「元祖」と称するに相応しいものがあると自負しております。」と主張して、被控訴人が居飛車穴熊戦法の元祖であるとの虚偽の事実を公言しており、控訴人が得た居飛車穴熊戦法の元祖又は創始者と呼ばれる名誉は、被控訴人の右行為により侵害された。

5  よって、控訴人は、被控訴人に対し、居飛車穴熊戦法の創始者又は元祖と呼ばれるという控訴人の名誉を被控訴人が侵害したことに基づき、慰謝料三〇〇万円及びこれに対する平成八年一一月三日(本訴状送達の翌日)から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払並びに被控訴人による居飛車穴熊戦法の元祖、創始者、本家本元その他これに類する呼称を用いることの差止めを求める。

二  請求原因に対する被控訴人の答弁

1  請求原因1のうち控訴人が棋士である事実は否認し、その余の事実は認める。

2  請求原因2のうち昭和四〇年代の中頃から大山康晴名人の振飛車戦法が一世を風靡していた事実、居飛車穴熊は飛車を動かさず(居飛車)、玉を左下隅(先手の場合なら「9、九」の位置)に囲う(穴熊)ことであることはいずれも認め、大山康晴名人の振飛車戦法が一世を風靡したのが昭和三〇年代からである事実、控訴人が昭和五〇年頃までに居飛車穴熊戦法を創案した事実はいずれも否認し、その余は争う。大山康晴名人が振飛車戦法を多用したのは昭和四〇年代に入ってからである。控訴人がアマチュア愛好家の対局において居飛車穴熊戦法を採用したことの棋譜で公刊されている最初のものは昭和四九年であるが、昭和四三年には、升田幸三九段が名人戦で居飛車穴熊を採用している。

3  請求原因3のうち控訴人が昭和四八年に第一一期赤旗全国将棋大会に優勝し、昭和五〇年に日経全国初代アマ王座戦に優勝した事実は認め、控訴人が昭和四五年から昭和五二年まで赤旗全国将棋大会の東京代表になった事実、控訴人の棋譜が新聞、雑誌等に掲載された事実はいずれも不知、控訴人の棋譜が新聞、雑誌等に掲載されたことによって昭和五〇年以降プロ、アマを問わず居飛車穴熊戦法が広く指されるようになった事実、控訴人が居飛車穴熊戦法の元祖ないし創始者である事実はいずれも否認する。

4  請求原因4のうち被控訴人が控訴人主張の(一)ないし(四)のとおりの各発言及び主張をした事実は認め、その余の事実は否認する。控訴人の主張する「居飛車穴熊戦法の元祖」という呼称は、社会的評価を含むものであり、排他性を有しないから、保護法益となり得るものではないし、被控訴人も「居飛車穴熊戦法の元祖」という社会的評価を受けているから、控訴人の指摘する被控訴人の発言が侵害行為ないし不法行為になることはない。

5  請求原因5は争う。

三  被控訴人の主張

控訴人の主張する居飛車穴熊戦法の特色は、居飛車戦法と穴熊戦法とを組み合わせた上で、角行を先手の場合なら「7、七」の位置に上げること及び王将を先手の場合なら「9、九」の位置へ最短の手順で囲うことであると考えられるが、「7、七角」の位置に上げることは、序盤において角行を移動させる手順としては当然のことで独創性がなく、また、「9、九玉」へ最短の手順で囲うことも将棋の駒の動かし方を知っている人間なら容易にわかることで戦法と評価することはできない。一方、被控訴人の採用した居飛車穴熊戦法は、銀将を「6、六」の位置に上げることと玉の近くに金将が這いずるように移動することに特色があり(以下「Bタイプの手順」という。)、被控訴人は、昭和五一年の四段昇格後、対局において居飛車穴熊戦法を積極的に採用し年間最高勝率を収めたが、このことから他の棋士が居飛車穴熊戦法を研究し採るようになった。そして、被控訴人が昭和五二年刊行の「将棋世界一〇月号」付録として「最新戦法・居飛車穴熊」を発表したことも相俟って、昭和五二年一〇月以降、居飛車穴熊戦法が棋士及びアマチュア愛好家の間に大流行した。

四  控訴人の主張

Aタイプの手順もBタイプの手順も同じ居飛車穴熊戦法であり、「6、六」の位置に歩兵を上げるか銀将を上げるかということは、枝葉末節の問題である。居飛車穴熊戦法の真髄は、Aタイプの手順にあり、Bタイプの手順は、Aタイプの手順の変化型・亜種にすぎない。

理由

一  控訴人が昭和四八年に第一一期赤旗全国将棋大会に優勝し、昭和五〇年に日経全国初代アマ王座戦に優勝したなどの戦績を持つアマチュア将棋愛好家である事実、被控訴人が日本将棋連盟九段の棋士である事実、遅くとも昭和四〇年代の中頃から大山康晴名人の振飛車戦法が一世を風靡していた事実、居飛車穴熊は飛車を動かさず(居飛車)、玉を左下隅(先手の場合なら「9、九」の位置)に囲う(穴熊)ことであることは、いずれも当事者間に争いがない。

二  証拠(以下の各項中又は末尾の括弧内に掲げる。)及び弁論の全趣旨によると、プロ棋士及びアマチュア将棋愛好家の間で居飛車穴熊戦法が広く採用されるまでの経緯及びそれに関する公刊物中の記載は、次のとおりであると認められる。

1(一)  棋士の対局で初めての居飛車穴熊は、昭和二六年九月の第六期A級順位戦の原田泰夫八段と松田茂行八段の対局で原田八段が指したもので、原田八段が勝利した。これは、矢倉囲いからの持久戦による穴熊への組み替えであり、最初から穴熊を目指したものではなかった(甲第七三号証、乙第六号証、乙第七八号証の一)。

(二)  昭和二七年六月の第一回産経杯争覇戦の灘蓮照七段と南口繁一八段の対局で、灘七段が居飛車穴熊を指して敗れた(乙第七八号証の一)。

(三)  昭和二七年九月の第七期B級順位戦の金高清古七段と建部和歌夫八段の対局で、居飛車穴熊の金高七段が振飛車穴熊の建部八段に勝利した(乙第七九号証)。

(四)  昭和四三年四月に行われた第二七期名人戦第二局において升田幸三九段が大山康晴永世名人との対局で、居飛車穴熊戦法を採用したが、大山永世名人に敗れた(乙第七五号証)。

(五)  昭和四九年になると、宮田利男(当時四段)が主としてテレビの早指戦で居飛車穴熊を連採するようになった(乙第四号証の四、五)。

2(一)  控訴人は、昭和四八年一二月頃の全国アマ強豪勝抜戦近代将棋杯争奪戦第一九八局及び昭和四九年五月の同第二〇〇局において、居飛車穴熊戦法を採用し勝利した(「近代将棋」昭和四九年二月号及び同年七月号。甲第一、二号証)。

(二)  控訴人は、昭和四九年二月に行われた神奈川新聞社主催の第二一回箱根名人戦の決勝戦において、居飛車穴熊戦法を採用し敗れた(「神奈川新聞」昭和四九年三月頃。甲第五九号証)。

(三)  控訴人は、昭和四九年一二月の日刊スポーツアマ将棋大会の決勝戦において、居飛車穴熊戦法を採用し敗れた(「日刊スポーツ」昭和四九年一二月二五日号・二八日号・三〇日号・三一日号。甲第三号証、第六三号証)。

(四)  控訴人は、昭和五〇年一一月頃の日経アマ将棋王座戦の予選同率決戦、準決勝戦及び決勝戦においていずれも居飛車穴熊戦法を採用し勝利した(「将棋」第二七号及び「日本経済新聞」昭和五〇年一一月二九日号。甲第五二、五三号証)。

(五)  控訴人は、昭和五二年一月頃の神奈川新聞社主催の第二四回箱根名人戦の決勝戦において、居飛車穴熊戦法を採用し敗れた(「神奈川新聞」昭和五二年三月九日号ほか。甲第四号証)。

(六)  控訴人は、昭和五二年三月頃の赤旗日曜版名人戦東京都大会準決勝において、居飛車穴熊戦法を採用した(「東京民報」昭和五二年三月一三日号ほか。甲第三五号証)。

(七)  なお、控訴人は、原審本人尋問において、控訴人が居飛車穴熊戦法を指し始めたのは昭和三〇年代であった旨供述し、近代将棋昭和五五年四月号(甲第五号証)に、「ボクはもう十何年も前から居飛車穴熊指していたんです。アマ王座(日経)を取ったのも居飛車穴熊を考案したおかげと言えるでしょうね」との控訴人の談話が記載され、「赤旗」昭和五九年一月一日号(甲第三九号証)に「プロでイビアナといえば田中寅彦七段ですが、この戦法の元祖はアマの大木さんというのが棋界の定説。」と控訴人を紹介した上で、「大木『二十年ほど前、原田九段が手詰まりから穴熊にかこったのがヒント。これを新聞で見て、それなら最初から穴熊にしてもいいんじゃないかと思って……。(中略)』。以来、大木さんがイビアナを指した数は約二万局!」との記事が記載されており(「二十年ほど前」は、昭和三九年頃になる。なお、原田九段の居飛車穴熊対局は、昭和二六年九月である。)、「赤旗」昭和五九年一月八日号(甲第三八号証)にほぼ同旨の記事があり、炬口勝弘「将棋アマ強豪烈伝」(昭和六四年一月刊。甲第六一号証)に、「得意戦法 居飛車一辺倒。左穴(居飛車穴熊)の元祖。三〇年前、原田八段が手詰りから入ったのにヒントを得、独自の工夫を加え完成させた。」との控訴人の談話が記載されており(「三〇年前」は、昭和三四年頃になる。)、右供述に沿う証明書(甲第二七号証、甲第二八号証の一、甲第五四号証)が提出された。しかし、「赤旗」昭和五七年八月三〇日号(甲第三三号証)に「私の穴熊が初めて活字になったのは十年くらいまえの『アマ強豪勝ち抜き戦』。『近代将棋』に載りました。」と控訴人の談話が記載されているから、控訴人が対局において居飛車穴熊戦法を採用したことが公刊物に登載されている中で一番古いのは、前記(一)の昭和四八年一二月頃の全国アマ強豪勝抜戦近代将棋杯争奪戦第一九八局であると認められ、他に控訴人が昭和三十年代又は昭和四十年代初期の段階において居飛車穴熊戦法を連採していたことを示す客観的資料がないので、右控訴人の供述及び書証は、採用することができない。

3(一)  昭和四九年二月に行われた神奈川新聞主催の第二一回箱根名人戦の決勝戦の「神奈川新聞」の記事(甲第五九号証)に、穴熊囲いが「大事な一戦には大木五段が愛用する得意な戦法と聞く。」と記載されている。

(二)  「近代将棋」昭和五五年三月号(甲第三四号証)に「自他共に認める居飛車穴熊の元祖・大木和博六段」と記載されている。

(三)  「近代将棋」昭和五五年四月号(甲第五号証)に、「居飛車穴熊の元祖」との見出しで控訴人の談話が記載されている。

(四)  「赤旗」昭和五七年八月三〇日号(甲第三三号証)に「この居飛車穴熊の元祖がなんと『赤旗』名人なのです。(中略)『ええ、私が元祖であることは間違いありません。私は振飛車にたいする居飛車側の舟囲い定跡に疑問を持ち、居飛車穴熊の“開発”を思いつきました。プロの瀬戸博晴四段が奨励会二、三段のころ、私が居飛車穴熊でずいぶん指しました。瀬戸さんはこの戦法を奨励会に持ちこみ、やがて若手プロのあいだに……』けっして自画自賛ではありません。瀬戸四段はじめ、多くの若手プロの証言もぴたり一致します。『大木さんこそ居飛車穴熊の源流。大きな影響を及ぼしたことは間違いありません』と瀬戸四段も語ります。」と記載されており、「将棋ジャーナル」昭和五九年三月号(甲第七号証)にも、ほぼ同旨の記事がある。

(五)  昭和五七年八月に行われた読売将棋大会六回戦の「将棋ジャーナル」の記事(甲第六号証)に、「元祖居飛穴党強し」との見出しで控訴人の棋譜が登載されている。

(六)  「新将棋天国」(昭和五八年刊。甲第三七号証)及び「赤旗」昭和五八年一一月三日号・四日号(甲第三六号証、甲第六〇号証)は、いずれも控訴人を「居飛車穴熊の元祖」として紹介している。

(七)  「朝日新聞」平成六年三月一三日号(甲第四六号証)及び「第一七回朝日アマ将棋名人戦」(甲第四七号証)に、控訴人が「居飛車穴グマの創始者としても有名。」と紹介されている。

(八)  控訴人を居飛車穴熊の元祖とするアマチュア将棋愛好家の証明書(甲第二九号証)、控訴人を居飛車穴熊の本家本元とする羽生善治名人の書簡(甲第三〇号証の一)、控訴人が居飛車穴熊戦法を編みだしたとする近代将棋社の永井英明の書簡(甲第三一号証の一)がある。

4(一)  被控訴人は、昭和五一年六月四段になって棋士になり、棋戦において、居飛車穴熊戦法を多用し、昭和五二年度新人賞、昭和五三年度・昭和五五、五六年度・昭和五八年度勝率第一位賞、昭和五六年度新人王を得た(乙第一九ないし第二二号証、乙第二四ないし第二八号証、乙第三四号証、原審における被控訴人本人尋問)。

(二)  被控訴人は、「将棋世界」昭和五二年一〇月号の別冊附録として「最新戦法・居飛車穴熊」(乙第一号証の一ないし六、被控訴人の原審準備書面(四)添附資料)を執筆し、居飛車穴熊戦法を説明した。

(三)  被控訴人は、「将棋世界」昭和五二年一二月号から「振り飛車に負けるな」と題する一〇回の連載記事(甲第一九、二〇号証、被控訴人の原審準備書面(四)添附資料)を執筆し、居飛車穴熊戦法を更に詳しく説明した。

(四)  「激闘 居飛車穴熊対振飛車」(昭和五七年三月刊。乙第一八号証)に、月別居飛車穴熊採用数の昭和五一年四月より昭和五六年一一月までの調査結果が登載されており、「五二年度より居飛車穴熊の数がふえているのは、五一年に四段に昇段した田中(寅)四段(現五段)が五二年四月より各棋戦に参加、居飛車穴熊を多用し、高勝率を上げたことが一つのきっかけになっていると思えるが、前後して若手棋士による居飛車穴熊の研究がさかんに行われたことにもよると思われる。」と記載されている。

(五)  被控訴人は、「近代将棋」昭和五九年七月号(甲第五一号証)において、インタビューに答えて、奨励会時代に瀬戸博晴六段の居飛穴に苦しめられたのが原因で、四段になって居飛車穴熊戦法を開発した旨を述べている。

5(一)  奥山紅樹「これを知らないと勝てない 居飛車穴熊のチャート」(「将棋賛歌」昭和五五年五月刊。乙第三号証の一ないし二四)に『ここで居飛車―振飛車両方の長所をとり入れた、新しい指し方が成立しないか』と考えた新鋭棋士がいる。だれあろう、田中寅彦四段その人である。発想の転換というべきか、ざん新な『居飛車穴熊』という戦法はこうして生れてきた。」と記載されている。

(二)  葉村中「居飛車穴熊指定対局 奨励会VS東京選抜」(昭和五五年七月刊。乙第一五号証)に「指し手の解説は、居飛車穴熊の本家本元、田中寅彦五段にお願いした。総本家の居飛車穴熊感についても(以下略)」と記載されている。

(三)  奥山紅樹「流派よ興れ―一観戦記者の提言―」(「将棋世界」昭和五七年一月号。乙第五号証)に、居飛車穴熊戦法「の近代の“開祖”は、奨励会員時代の瀬戸博晴プロ(現四段)であり、さらにそのルーツをたどると東京のアマ強豪で知られる大木和博氏(『赤旗』アマ名人)あたりに行きつくという。それはともかく、田中五段は、従来細ぼそと指されていた本戦法に注目、飛・角と右銀の連係プレイに独特のノーハウを編み出し、あっという間に“居飛穴の雄”となった。」と記載されており、同書は、被控訴人を新戦法の開発者としてとらえている。

(四)  中原誠「激闘 居飛車穴熊対振飛車」(昭和五七年三月刊。乙第一八号証)の「推薦の言葉」に「居飛車穴熊戦法の流行は大変なものだが、そもそものきっかけは、私の弟弟子の田中寅彦五段を中心とする若手グループが指し始めて、対振飛車に好成績をあげたからである。」と記載されている。

(五)  「第一回 早指し新鋭戦テレビ東京」(「将棋賛歌」昭和五七年九月刊。乙第一六号証)に、伊藤果五段の発言として「田中六段は、ボクとは兄弟弟子なんですが、居飛車穴熊の創始者ですからね。」と記載されている。

(六)  「居飛車穴熊の巻 酔棋の将棋戦法別 性格占い」(「将棋賛歌」昭和五八年二月刊。乙第一二号証)に「ここ数年にわたって、もうすっかり将棋界を席巻した感のある、居飛車穴熊を今回は取り上げてみる。この戦法の功労者として、まず第一にあげられるのは、なんといっても現在もこの戦法で勝率を稼いでいる田中寅彦六段だ。」と記載されている。

(七)  森安秀光「森安流四間飛車」(昭和五八年一〇月刊。乙第八号証)に「『居飛車穴熊』通称“イビアナ”と呼ばれている。戦法化したのは本局の田中寅彦七段。」と記載されている。

(八)  谷川浩司・被控訴人「対決〈青春七番〉」(昭和六〇年一二月刊。乙第一〇号証)の谷川執筆部分に、被控訴人のことを「ことに彼の創始した居飛車穴熊―通称イビ穴―は、ほとんど負けを知らない快進撃ぶりを見せ、振り飛車党をふるえ上がらせていた。」と記載されている。

(九)  加藤治郎他「将棋戦法大事典」(昭和六〇年一二月刊。乙第一七号証)に「田中寅彦四段(当時)が対振飛車戦法の有力戦法として、居飛車穴熊を開発したのが五十一年のことである。」と、また、「現在では居飛車穴熊戦法の流行は大変なものだが、一昔前には全くプロ間で指される事は無かった。むしろ『玉が固いだけのアマ的戦法』と軽蔑される事はあっても、今の様に注目される事は四百年の将棋史にない事であった。そもそものきっかけは、田中寅彦七段や瀬戸博晴四段を中心とする若手グループが指し始めて、対振飛車に好成績をあげたからであった。」と記載されている。

(一〇)  福崎文吾「居飛車穴熊の正体」(昭和六二年一二月刊。乙第七号証)に、「居飛車穴熊はアマの間では大阪を中心にして昭和四〇年以前から指されていましたが、何故かアマ名人を獲得する人が採用していなかったため一般の人はほとんど知りませんでした。昭和五〇代初期に田中寅彦八段がプロの公式戦で振飛車相手に連採し高い勝率を上げたため一気にプロ・アマ間で流行しました。」と記載されている。

(一一)  青野照市「プロの新手28」(平成元年一一月刊。乙第四号証の一ないし一〇)に、昭和四三年四月に行われた第二七期名人戦第二局において升田幸三九段が居飛車穴熊戦法を採用したが、「居飛車穴熊のルーツは、このあたりにあると言っていいかも知れない。」と記載され、また、「居飛車穴熊が本格的に流行するのは、昭和五一年に四段になった、田中寅彦八段が、連採するようになってからであろう。」と記載されている。

(一二)  青野照市「実践青野塾 兵力配分の移り変り」(「近代将棋」平成八年一〇月号。乙第二号証の一ないし五)に「居飛車穴熊のルーツそのものは、ハッキリ断定することはできない。プロ間にも昭和三〇年代からあったと聞くし、昭和四二年には升田九段が、名人戦の桧舞台で指しているが、他のプロ棋士が良い戦法だとは思わなかったのだろう。誰もマネをする人はいなかった。その意味では、戦法として確立したのは、アマの大木和博さんだと思う。彼は各種のアマ戦で数多くの左穴熊を用い、この戦法の優秀さをアマ間でなく、一部のプロ棋士にも広めた功績がある。しかし本当に、プロ棋士が居飛車穴熊を多く指し始めたのは、田中寅彦九段が新四段時代に多用したからである。」と記載されている。

(一三)  小林健二「スーパー四間飛車―最新版― ①急戦!居飛穴破り」(平成九年二月刊。乙第六号証)に、棋士の対局で初めての居飛車穴熊は、昭和二六年九月の第六期順位戦の原田泰夫八段と松田茂行八段の対局で原田八段が行ったものであると指摘した上で、「昨今の居飛車穴熊ブームの火付け役は田中寅彦九段である。昭和五十年代前半からこの囲いを新戦術にして勝ちまくったのであった。」と記載されている。

6  昭和五一年頃まで、居飛車穴熊について、棋士の間での関心は薄かったが、アマチュア愛好家の間では、ある程度行われていた。控訴人は、昭和四八年一二月頃以前からアマチュアの棋戦において居飛車穴熊を多用していた。昭和四九年になると、宮田利男(当時四段)が主としてテレビの早指戦で居飛車穴熊を連採し、また、その頃、被控訴人は、奨励会において居飛車穴熊を多用する瀬戸博晴六段と対局することがあった。なお、瀬戸博晴六段は、居飛車穴熊を多用していた控訴人と多く対局したことから、自分も居飛車穴熊を多用するようになった。そして、被控訴人が昭和五一年から棋戦において居飛車穴熊戦法を多用して好成績を収めたため、昭和五二年頃から居飛車穴熊戦法を研究して採用する棋士が増え、被控訴人「将棋世界」昭和五二年一〇月号の別冊附録として「最新戦法・居飛車穴熊」を出した頃からアマチュア愛好家の間にも居飛車穴熊戦法が流行し出した。それまでの居飛車穴熊はAタイプの手順であったが、被控訴人が採用したのはBタイプの手順であり、これは、被控訴人の開発した独創性のあるものであった。被控訴人は、宮田利男や瀬戸博晴が居飛車穴熊を連採していることは知っていたが、控訴人のことは知らなかった。また、控訴人が「居飛車穴熊の元祖」と自称し又は呼ばれていることが公刊物に登載されたのは、居飛車穴熊戦法が流行するようになった後の昭和五五年以降である。

三  控訴人が主張する「居飛車穴熊戦法の創始者又は元祖」について検討する。

1 控訴人は、「居飛車穴熊戦法」とは、相手が振飛車戦法をとることに対抗して、序盤戦の段階で、基本的には、「7、六歩」、「6、八玉」、「7、八玉」、「7、七角」、「9、八香」、「8、八玉」、「9、九玉」、「8、八銀」、「7、九金」との守りの手順に「2、六歩」、「2、五歩」、「5、六歩」、「4、八銀」、「5、七銀」との攻めの手順を加えて守りと攻めとを一体化した手順(Aタイプの手順)のことであると定義付けているところ、被控訴人は、居飛車穴熊にするに際し銀将を「6、六」の位置に上げることと玉の近くに金将が這いずるように移動することを特徴とする手順(Bタイプの手順)は、被控訴人が戦法として開発したもので、控訴人主張の居飛車穴熊戦法(Aタイプ)とは異なる戦法であると主張している。

この点について、控訴人は、Bタイプの手順も控訴人主張の居飛車穴熊戦法の変化手順であって、控訴人主張の居飛車穴熊戦法に含まれると主張している。しかし、被控訴人ばBタイプの手順を開発するまで、棋戦において戦法としてBタイプの手順が採用されたことはないから、Aタイプの手順の研究からBタイプの手順が容易く導き出されるものでないことは明らかであり、被控訴人が開発したBタイプの手順を特徴とする居飛車穴熊戦法は、戦法として独創性があると認められる。したがって、控訴人が開発したと主張する居飛車穴熊戦法は、Aタイプの手順であることを特徴とするものであるから、被控訴人が開発したBタイプの手順を特徴とする居飛車穴熊戦法は、控訴人が開発したと主張する居飛車穴熊戦法と異なる戦法であることになる。

2 控訴人が主張する「居飛車穴熊戦法の創始者又は元祖」とは、以下のとおりのものであると解せられる。控訴人の主張に従うと、居飛車穴熊戦法の元祖又は創始者とは、居飛車穴熊戦法を創案し確立した者を意味し、創案し確立したとは、居飛車穴熊戦法のエッセンスとなる手順を選択し集積したことであるとしている。「居飛車穴熊戦法のエッセンスとなる手順を選択し集積した」との意味は、明確でないが、善解すれば、振飛車戦法に対して高い勝率を上げる戦法として居飛車穴熊戦法という手順を開発し棋戦において多用したことと解される。したがって、居飛車穴熊戦法の創始者又は元祖とは、居飛車穴熊戦法という手順を開発し棋戦において多用した最初の者を意味することになる。

そして、先に認定した事実によれば、控訴人は、Aタイプの手順を特徴とする居飛車穴熊戦法を開発しアマチュアの棋戦において多用した最初の者であるということができ、右の限り(アマチュアの棋戦であること及びAタイプの手順を特徴とする居飛車穴熊戦法であること)で、Bタイプの手順を特徴とする居飛車穴熊戦法が流行するようになった後に、居飛車穴熊戦法の元祖又は創始者と評価されていたというべきである。

一方、先に認定した事実によれば、被控訴人は、Bタイプの手順を特徴とする居飛車穴熊戦法を開発し、昭和五一年から棋戦において居飛車穴熊戦法を多用して好成績を収めたことから、昭和五二年頃からプロの棋士の間にもアマチュア愛好家の間にも居飛車穴熊戦法が流行し出したのであり、被控訴人を居飛車穴熊戦法の元祖又は創始者と評価するのが一般的であることが認められる。

四  被控訴人が(1)「近代将棋」平成六年一月号七八頁において「振り飛車には居飛車穴熊!元祖の私としては」と発言し、(二)平成七年一一月八日のNHK衛星放送第二の将棋解説番組において「将棋の戦法に特許があれば他の人は居飛車穴熊を指せない。」と発言し、(三)「近代将棋」平成八年二月号一〇二頁において「ご存知居飛車穴熊(エヘン。その元祖は、エヘン、不肖このわたくし田中寅彦めでございます。」と発言し、(四)控訴人に対する平成八年二月六日付回答書において「私が「元祖」と称したのは、「居飛車穴熊」を独自に研究し、序盤の組み立て、駒の配置移動等を確立したためであります。(中略)私の序盤の組み立て、駒の配置移動については「元祖」と称するに相応しいものがあると自負しております。」と主張したことは、当事者間に争いがない。

控訴人は、Aタイプの手順を特徴とする居飛車穴熊戦法を開発しアマチュアの棋戦において多用した最初の者であるという意味において、「居飛車穴熊戦法の創始者又は元祖」であり、そのように呼ばれるという名誉を有するところ、被控訴人は、Bタイプの手順を特徴とする居飛車穴熊戦法を開発しプロの棋戦において多用した最初の者であるから、前記被控訴人の発言ないし主張に虚偽の事実が含まれていることにはならないし、また、被控訴人が「居飛車穴熊戦法の元祖」と自称することは、控訴人の活躍の場がアマチュアの棋戦であるのに対し、被控訴人の活躍の場はプロの棋戦であり(プロの棋戦のレベルがアマチュアの棋戦のそれより圧倒的に高いことは、いうまでもない。)、控訴人がAタイプの手順であるのに対し、被控訴人はBタイプの手順であるから、何ら不相当なことではない。

したがって、前記被控訴人の発言ないし主張は、控訴人の「居飛車穴熊戦法の創始者又は元祖」であるとの名誉に抵触するものでも、その社会的評価を低下させるものでもないから、控訴人の「居飛車穴熊戦法の創始者又は元祖」であると呼ばれるという名誉を侵害するものではない。なお、被控訴人は、前記発言ないし主張をするに際し、控訴人が居飛車穴熊戦法という手順を開発しアマチュアの棋戦において多用した最初の者であることに一切触れていないが、被控訴人がプロの棋士であって、被控訴人がアマチュア将棋愛好家であることからすれば、右事実は、被控訴人に何らかの責任を生じさせるものではないというべきである。

五  以上のとおり、控訴人の名誉を被控訴人が侵害した事実は認めることができないから、その余について判断するまでもなく、控訴人の被控訴人に対する本訴請求は失当であり、棄却するべきものである。

よって、本訴請求を棄却した原判決は相当であって、本件控訴は理由がないから棄却することとし、控訴費用の負担につき民事訴訟法六七条一項、六一条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官・瀬戸正義、裁判官・大島崇志、裁判官・河野泰義)

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